文系大学院生の生活

文系大学院生、近現代文学専攻。研究や大学院の生活について記録していきます。

最近考えたことのメモ(短い)

最近考えたことのメモ、本当に短い。

  • 前に時代背景を知らずに読んで理解した内容は読みとしてあやまりなのかについて考えていたけれど、ここには「感性」にもとづいた「素直」な読みこそ、フラットであるという前提がある気がした。だけど、もとづけるほどの感性が自分に備わっていると言えるか。むしろフラットであるつもりで、とてつもなく偏ってる場合あるよね。というか、パラダイムからは誰も逃れられないのだから偏ってるのが前提になる~。そういう自分の知らないうちに身に沁み込んでしまった感性や価値観を、軌道修正するのに色々調べることはやっぱり重要だ……。でもだからといって、面白いと思って読んだ感覚まで否定されるのは違うし。感想と研究は別と考えれば済むのでは?という声が聞こえてきそうだけども、そこも少し疑わしい。今日の文学研究においてテクストからは多様な読みが引き出せるという考え方は常識になった(どこに焦点を当てるかによって物語は異なる側面を見せる)。それはいいのだけれど、このように読めるはずだと世の中(?)に主張するなら「ただしさ」的なものが必要では?それともAという物語からABという読みを引き出すことと、ACという読みを引き出すことは全く別の問題で、共存可能ということなんだろうか。相容れない読み同士がぶつかると論争が起きるのだろうか…(たとえば『こゝろ』論争とか)。うーん。わたしが勉強不足なだけで、こんな問題とっくに解決してるのかな。どうかな。 

140字の思考

ツイッターが好きだ。ニュースだとか、今話題になっている情報を手軽に入手できるところがいい。可愛いねこの動画や写真も大好きである。

わたしのツイッター歴は6年。作ったアカウントの数はおそらく50を超えているだろう(というか稼働させていないものを含めたら現在でも十数個のアカウントを持っている、実際いま稼働しているのは3つです)。というくらい、実を言うとわたしは重度のツイ廃なのですが、最近ツイッターのせいだなあと思うことがよくある。

 

長い文章が読めない。

長い文章が書けない。

集中力がない。

 

とにかく、短時間(一時間とか二時間くらい)に一つのことを考え続ける基礎体力が落ちている。長期にかけて考えることは得意というか癖なので、半年か、それ以上ひとつのテーマで考え込むことはよくある。だけれども、短時間集中することができなくなっている。一二時間あれば読めるものを、集中して読めない。一二時間あれば書けるだろうものを、書くことができない。読むのはまだいい。スマホをどこか見えないところに置いてしまえば、割と集中して読める。

だけれども、書くのが本当にむずかしい。直感的に、瞬間的に、核のような部分は見えている。しかし、それを丁寧に説明しようとするともうだめだ。

主張の核はすでに自分の中にあるのだが、なぜそのように主張するのか、そのような主張にいたる背景は何なのか、そのような主張によって何がもたらされるのか等々を、構成するだけの気力を失っているのである。だからてっとり早く、ツイッターで140字で呟いてしまう。言いたいことが言えてすっきりする。いいねがつくと、共感してくれる人がいるんだなと思って、ちょっと嬉しくなる。

 

だけど、そうやって直感的な考えだけを持つことに危機感を覚えている自分がいる。「これから書く内容は決まっていて、書くという行為は、それを何らかの媒体に移すだけのことだ」といった考え方にわたしは賛成していない。もやっとした何かはあるけれど、書くまでは、それが「何」であるのか自分にも見えていない。このような感覚の方が、わたしにとっては実態に近い。だから、自分が直感的に感じた何か、その核だけを抽出し、呟いて満足している自分に危機感がある。本当に、わたしが考えていることはそれだけなんだろうか。ちゃんとわたしは考えているんだろうか。

 

140字に、カジュアルに、画面に、わたしの言葉がおさまっている。

本当は、もっとよく考えなくてはと思う。自分の考えがどこから来たのか、そしてどこに行くのか。自分が、自分の考えが、この社会においてどのように位置づけられるのか、自分の言動がどのような社会階層や差別構造に与するのか。そういったことを考える力が必要だと思っている。わたしがそうなった/ならなかったとして、直接的に誰に迷惑をかけたり、誰かを幸福にしたりする訳ではないのだろうが、自分が自分に対して、そういうことをちゃんと考えてほしいと思っているのである。

むずかしいことを、手抜きしないで考えてほしい。

 

 

「文学を勉強して何になるの?」という問いについて

最近、大学院生への待遇がツイッターで話題になった。

授業料免除がなくなるという話だ。

これに対する「良識ある人々」の反応の多くは「大学院生は未来の技術革新を担う大切な存在なのになんてことだ!」というもので、文系の大学院生がまるで想定されていなくて笑った。まあ国が大学院生は働いてないだけのなんか勉強してる人だと認定しているくらいなので、希少種というか奇行種の、文系の大学院生が視野に入らないのも無理はないと思う。あれだけ「令和」で万葉集がどうだとか日本の古典がなんだとか騒いでいたのに。

 

文学部にいたときから、たとえば働いていた塾で「文学を勉強して何になるの?」「社会に出るときに何か役に立つの?」と生徒にも講師にも聞かれることはままあった。

わたしは小学生のころから、落語が好きで、そこから古典の世界にはまった。だからわたしが文学部への進学を決めたのは、単純に「文学の勉強がしたいから」であって、役に立つ何かという発想がほとんどなかった。そういった選択が許されたことを、今のところわたしは、幸運だったと思う。

文学を勉強して何になるの?という問いは、おそらく二つの問いを含んでいる。ひとつはこのわたしにとって何になるのか、ということと、もうひとつは社会にとって何になるのかということだ。

 

まず前者について。

文学を勉強して何になったんだろう。簡単に、分かりやすくいえば、読解力が身についた、だろうか。平たすぎて文学部出身の友達に「うすっぺらいことを言うな」と怒られるかもしれない。ただ文学部で求められる読解力は、いわゆる世間の「読解力」とは少しちがう。たとえば『こゝろ』を何十回も読んで、先行研究を何十本も読んで、本文一行ずつに注釈をふし、一語一語の連関に細心の注意を払って読んだことがある人はどのくらいいるだろうか。よっぽど『こゝろ』が好きな人か、そういう学科の人、あるいは研究者くらいだろう。文学部(国文科)でいう読むとは、一行一行をそうやってばかみたいな手間と暇をかけて読むことであって、目を通すという意味ではない。

そしてこの作業を地道に続けていると、書かれているものの背後にどんな思想や歴史、文化が凝縮されているのかを読み取ることができるようになってくる(もちろんそれ単体を読むだけでなく、芋づる式に多くの書かれたものを読むことになる)。それを深読みし過ぎ、考え過ぎだと嘲笑されるのにも、もう大分馴れた。だけどその一方で、そういう人達の中にもなんとなく生きづらいという感覚はあるらしく「こういう空気がいや」みたいなことを言う。それを作ってるのが、言葉ですよ、その背後にある思想ですよ、その思想によって生み出される様々な利益ですよ。と、面と向かって言うのに疲れたので、わたしは心の中でささやいている。

ただ、このような読解力を身に付けることがわたしにとって何になるんだろうか。なんだか様々な形の不幸がよりよく見えるようになった気がする。あまりハッピーではない。だけど、自分の言葉がどんな思想や歴史性を負ったものなのか、常に考えることによって、歴史的に弱い立場に押し込められてきた人々を、自分を含めて想像し、どうふるまうべきかを考えられるようになったと思う。もちろん無自覚に誰かを傷つけている可能性は十分にある。だけどその自覚やそうなるまいと自分を律するようになったのは、一つの成熟と言えるのでないか。他にもいろいろ学んだことはあるけれど、ひとまず、直接的でもっとも大きいのはこれです。生きづらそうだね、と言われるのも仕方がない。

 

次に後者について。

これは以前ツイッターでつぶやいたことと重複するのだけど、物語は人間の生命維持には必要ない。なのに、なぜか、あたかも物語らないと死ぬかのように、連綿と社会には物語が生み出されつづけている。文字を持たないから、記録の媒体として歌が選ばれたとか、メタファーとして物語るしかなかったとか、そういう時代もあっただろう。でも、文字が生まれても、出版技術が普及しても、物語はなくなるどころか増える一方である。

たしかに『こゝろ』の解釈が世の中に一つ増えたところで、何の役に立つのだと言われると、文化の発展に寄与しているくらいしか(人に通じる言葉では)言えない。だけど、それは書かなくてもいいものを書き、読まなくてもいいものを読む、そういった人間の活動を解明する、実践的なアプローチの一つとして十分位置付けられる。

なぜ書くのか、なぜ読むのか。

これらを人間の広義の生命活動として捉えれば、それを解明する学問ですということでよいのでは?大学一年生のころからずっと考えてきたことだけど、今のところ、これがわたしの「文学研究して何になるの?」への答えである。

 

 

文学研究について思うところ

 文学に「ただしい」読み方があるのかということを、ずいぶん前から考えている。

 私は作家作品論かテクスト論か、どちらの立場に立っているのかと聞かれると後者だと答えるようにしている。作家についての知識がなくとも面白い作品は面白く読めるし、作家について知らないと面白くない作品は、そもそも作品として成立できてないんじゃないか。例えば、わたしは江國香織の『きらきらひかる』が好きだけれど、実をいうと生身の人間である江國香織についてはほとんど知らない。そりゃ多少、アメリカに留学していたらしいだとか、豆ごはんが好きだとかは知っているけれど、何年にどこで生まれてどんな家族構成でどうやって育ってきたのかだとかはほとんど知らない。知らないけれど、作品は面白いと思う。そして作家について何も知らなくても、私が面白いと感じたことは事実なのであり、かつ『きらきらひかる』がいかに面白いか、なぜ面白いのか、どのように面白いのかを語ることは可能である(と考えている)。

 まあそもそも作家論は作品をとおして作家に迫ろうとするもの、あるいは作家にとっての作品の位置づけを研究するものなのだから、私の考えている読み方(作品を読むことが目的)とは根っこが違う。なんだか作家論を全否定する勢いで書いてしまったけれど、そもそも目的が違うのであり、史実としての作家研究は面白いし、重要だと思っている。なにより「漱石の成績表が見つかりました!」とか言われるとテンションが上がる。ただ作家についてよく知らないと何も言ってはいけないような雰囲気というのは変だなあと感じる。なんというか古参ヲタクがにわかを非難している雰囲気にちかい。

 今作家についてよく知らないと……と書いたが、この点に関しては割と同意が得やすいと思う。しかしこの問題は、作品の書かれた「時代」について考えるとより複雑である。わたしは一応近代国文学専攻にあたるので、明治~戦前の作品を目にすることが多いのだが、今と同じ言葉を使っていても連想されるイメージがあまりにもかけ離れているということはよくある。たとえば「カフェー」なんかがその例として分かりやすい。現在でこそ「おしゃれなカフェ」とか「おすすめデートスポット♡」とかいう扱いがされているけれど、昭和期のカフェーは性の匂いがぷんぷんする。簡単にいうと風俗みたいなもんである。明治期の「女学生」なんかもそうで一方では中・上流階級の高等教育を受けた女子学生という意味合いもあるが、一方は性に奔放な、ふしだらで、けしからん女!!という意味合いもある。だからもし「女学生とカフェーにいった」という一文があれば、今と当時の読者ではまったく受けるイメージが異なるのだ。(厳密には風俗営業的なカフェーは明治にはないし、女学生の性的なイメージは(私見としては)昭和期には明治期ほどつよくない。)

 このようなイメージのずれが積み重なったとき、そしてその違いに気づいていないとき、私の読みは「まちがった」ものになるんだろうか。もしも仮にこのようなイメージのずれが積み重なりつつも作品全体の解釈として整合性がとれている、他の要素とまったく齟齬をきたさない読みがあった場合には、どうなるのだろうか。実際には人物や場所の設定には意味がある、あるいは後から意味が生じてくる、ので、完璧に整合性がとれていることも、齟齬が起きないということも、めったなことでは起きないと思うが、もし仮にそのようなことがあるとするならば、それは「現代版」の解釈として採用することができるんじゃないだろうか。その時代を、その時代の文化を、その時代の文脈を知らなかった場合の読みというものは、成立しないのだろうか。感想としては成立するが、論評としては成立しないということになるのか。しかし整合性が取れているとしたら?そんなとき、どうやって考えたらよいのだろう。

 

長くなったので今日はこれにておしまい。多分つづく。

 

 

 

 

もやっとした雑記

お久しぶりです。

春休みが終わってから途端に忙しくなってブログの存在をすっかり忘れていました……。久しぶりに読み直してみると、この短期間にまた考えが変わった気がして記事をいくらか非公開にしました。読んでくださった方はありがとうございました。今日も就活について、もやっとしていることを書きたいと思います。

 

「就活って辛いって聞くけどなにが辛いの?」

以前友人と飲みにいった際、このような質問を受けました。

そのとき自分が何を答えたのかもう覚えてないのですが、覚えていないというのは要するに、辛さをしっくりくる形で言語化できなかったからじゃないのかなと思っています。

 

「就活してないから分からへんねんけど、こういうことが辛いの?これはこういうこと?」と重ねて聞かれるたびに、なんとなく違うような気がして、でも大筋ではあっている。でも、やっぱり何かちがう気がして、自分の言葉で言いなおしてみる。しかしそれを要約すると、その子の言うとおりである。だけど要約してしまうと、何かが抜け落ちてしまっているような、それがわたしにとって一番大事なもののような、そんな気がする。しかし友達がせっかくまとめてくれたことを、微妙にちがうからと言っていちいち訂正するのも、めんどくさい奴と思われそうで「まあ大体そんな感じ」と答えてしまう。(というかほとんど友だちの言うことはあっている。)結果、友だちもあまり腑には落ちなかったと思う。

 

このような腑に落ちない感じを抱えて早2ヶ月が経ちましたが、最近やっともやもやの正体が分かりました。「自分の苦しみは他の人とはちがう」と思いたいし、事実「自分」の苦しみは他の人とは違うから。

 

たしか最果タヒの詩に、みんなそうだよって言われると否定された気になる(うろ覚え)という一節がありました。どの詩か忘れてしまったけど。

自分は特別だと思いたいという気持ちは、普遍的なものであって特別ではない。けど特別だと思いたいと思っている「自分」は、あなたとはちがうし、彼女とも彼ともちがう。わたしは、わたしだけ。けれどもそのことーーわたしはわたしだけーーは日本だけでも1億2000万人みんながそう。特別じゃないのだ。だけど、やっぱり1億2000万人の中に誰ひとりおなじ「わたし」はいない。

だから「就活って何がつらいの?」に対してうまく答えられない。自分にとっては就活での体験もひとつの特別なエピソードだけど、就活自体はバカみたいにみんな揃ってやっていることなんだから、わたしの体験は「よくあること」の一つに過ぎない。でも「よくあること」の中身は一つ一つちがっていて、その微妙なちがいの中に、個人的なことばにできない何かが詰まっているんだと思う。つらい、くるしい、不安、焦り、本当にこれでいいのか、自分に価値がないんじゃないか。こういった就活のつらさを表す言葉は表面的にはおなじでも、それを吐き出すまでの、言語化以前のプロセスは、全員ちがうと思う。だから同じ経験をしてもらうことによってしか、伝える方法がないのだ。でも同じ経験をしたからと言って、わたしとあなたはちがう人間だから、結局のところ、同じ経験はできない。そうなってくるとありあわせの言葉でなんとか伝えるしかなくて「みんな」と同じことばで同じように説明してしまう。一生懸命「こういうこと?」と聞いてくれる友達に対して「だいたいそんな感じ」と答えてしまう。腑に落ちない。伝わらないし、理解できない。だからせめてもの慰みに、みんなで「つらいね」って言いあって「自分」たちを癒そうとしているんじゃないだろうか。「就活がつらい」をよく聞く理由は、ここにあるんだと思う。

 

よって「就活の何がつらいの?」の一つの答えは「つらさ」が「自分」だけのもので、それを人に分かってもらえるように伝える方法がないところなのだと思う。

おしまい。

 

もうこのブログただの雑記なのでそのうちタイトル変えようかなぁ。

ブログを開設しました。

タイトルそのまんまですが、ブログを開設しました。

自分の研究について、ログが作りたかったことと、文系(特に文学部系)で、これから大学院に進もうと考えている方の役に立てればよいなと思ったのが理由です。

わたしが院進学を決めたとき、ネットには文系の院試についての情報が少なく、あったとしても不確かに感じられるものばかりで不安でした。また進学後の生活もあまりイメージができませんでした。

ですので、このブログではわたしの研究活動を中心に、大学院での生活や院試の対策など、これから大学院を目指す方に役立つ情報をアップしていきたいと思っています。

このブログが誰かの役に立てば幸いです。