文系大学院生の生活

文系大学院生、近現代文学専攻。研究や大学院の生活について記録していきます。

もやっとした雑記

お久しぶりです。

春休みが終わってから途端に忙しくなってブログの存在をすっかり忘れていました……。久しぶりに読み直してみると、この短期間にまた考えが変わった気がして記事をいくらか非公開にしました。読んでくださった方はありがとうございました。今日も就活について、もやっとしていることを書きたいと思います。

 

「就活って辛いって聞くけどなにが辛いの?」

以前友人と飲みにいった際、このような質問を受けました。

そのとき自分が何を答えたのかもう覚えてないのですが、覚えていないというのは要するに、辛さをしっくりくる形で言語化できなかったからじゃないのかなと思っています。

 

「就活してないから分からへんねんけど、こういうことが辛いの?これはこういうこと?」と重ねて聞かれるたびに、なんとなく違うような気がして、でも大筋ではあっている。でも、やっぱり何かちがう気がして、自分の言葉で言いなおしてみる。しかしそれを要約すると、その子の言うとおりである。だけど要約してしまうと、何かが抜け落ちてしまっているような、それがわたしにとって一番大事なもののような、そんな気がする。しかし友達がせっかくまとめてくれたことを、微妙にちがうからと言っていちいち訂正するのも、めんどくさい奴と思われそうで「まあ大体そんな感じ」と答えてしまう。(というかほとんど友だちの言うことはあっている。)結果、友だちもあまり腑には落ちなかったと思う。

 

このような腑に落ちない感じを抱えて早2ヶ月が経ちましたが、最近やっともやもやの正体が分かりました。「自分の苦しみは他の人とはちがう」と思いたいし、事実「自分」の苦しみは他の人とは違うから。

 

たしか最果タヒの詩に、みんなそうだよって言われると否定された気になる(うろ覚え)という一節がありました。どの詩か忘れてしまったけど。

自分は特別だと思いたいという気持ちは、普遍的なものであって特別ではない。けど特別だと思いたいと思っている「自分」は、あなたとはちがうし、彼女とも彼ともちがう。わたしは、わたしだけ。けれどもそのことーーわたしはわたしだけーーは日本だけでも1億2000万人みんながそう。特別じゃないのだ。だけど、やっぱり1億2000万人の中に誰ひとりおなじ「わたし」はいない。

だから「就活って何がつらいの?」に対してうまく答えられない。自分にとっては就活での体験もひとつの特別なエピソードだけど、就活自体はバカみたいにみんな揃ってやっていることなんだから、わたしの体験は「よくあること」の一つに過ぎない。でも「よくあること」の中身は一つ一つちがっていて、その微妙なちがいの中に、個人的なことばにできない何かが詰まっているんだと思う。つらい、くるしい、不安、焦り、本当にこれでいいのか、自分に価値がないんじゃないか。こういった就活のつらさを表す言葉は表面的にはおなじでも、それを吐き出すまでの、言語化以前のプロセスは、全員ちがうと思う。だから同じ経験をしてもらうことによってしか、伝える方法がないのだ。でも同じ経験をしたからと言って、わたしとあなたはちがう人間だから、結局のところ、同じ経験はできない。そうなってくるとありあわせの言葉でなんとか伝えるしかなくて「みんな」と同じことばで同じように説明してしまう。一生懸命「こういうこと?」と聞いてくれる友達に対して「だいたいそんな感じ」と答えてしまう。腑に落ちない。伝わらないし、理解できない。だからせめてもの慰みに、みんなで「つらいね」って言いあって「自分」たちを癒そうとしているんじゃないだろうか。「就活がつらい」をよく聞く理由は、ここにあるんだと思う。

 

よって「就活の何がつらいの?」の一つの答えは「つらさ」が「自分」だけのもので、それを人に分かってもらえるように伝える方法がないところなのだと思う。

おしまい。

 

もうこのブログただの雑記なのでそのうちタイトル変えようかなぁ。