文系大学院生の生活

文系大学院生、近現代文学専攻。研究や大学院の生活について記録していきます。

文学研究について思うところ

 文学に「ただしい」読み方があるのかということを、ずいぶん前から考えている。

 私は作家作品論かテクスト論か、どちらの立場に立っているのかと聞かれると後者だと答えるようにしている。作家についての知識がなくとも面白い作品は面白く読めるし、作家について知らないと面白くない作品は、そもそも作品として成立できてないんじゃないか。例えば、わたしは江國香織の『きらきらひかる』が好きだけれど、実をいうと生身の人間である江國香織についてはほとんど知らない。そりゃ多少、アメリカに留学していたらしいだとか、豆ごはんが好きだとかは知っているけれど、何年にどこで生まれてどんな家族構成でどうやって育ってきたのかだとかはほとんど知らない。知らないけれど、作品は面白いと思う。そして作家について何も知らなくても、私が面白いと感じたことは事実なのであり、かつ『きらきらひかる』がいかに面白いか、なぜ面白いのか、どのように面白いのかを語ることは可能である(と考えている)。

 まあそもそも作家論は作品をとおして作家に迫ろうとするもの、あるいは作家にとっての作品の位置づけを研究するものなのだから、私の考えている読み方(作品を読むことが目的)とは根っこが違う。なんだか作家論を全否定する勢いで書いてしまったけれど、そもそも目的が違うのであり、史実としての作家研究は面白いし、重要だと思っている。なにより「漱石の成績表が見つかりました!」とか言われるとテンションが上がる。ただ作家についてよく知らないと何も言ってはいけないような雰囲気というのは変だなあと感じる。なんというか古参ヲタクがにわかを非難している雰囲気にちかい。

 今作家についてよく知らないと……と書いたが、この点に関しては割と同意が得やすいと思う。しかしこの問題は、作品の書かれた「時代」について考えるとより複雑である。わたしは一応近代国文学専攻にあたるので、明治~戦前の作品を目にすることが多いのだが、今と同じ言葉を使っていても連想されるイメージがあまりにもかけ離れているということはよくある。たとえば「カフェー」なんかがその例として分かりやすい。現在でこそ「おしゃれなカフェ」とか「おすすめデートスポット♡」とかいう扱いがされているけれど、昭和期のカフェーは性の匂いがぷんぷんする。簡単にいうと風俗みたいなもんである。明治期の「女学生」なんかもそうで一方では中・上流階級の高等教育を受けた女子学生という意味合いもあるが、一方は性に奔放な、ふしだらで、けしからん女!!という意味合いもある。だからもし「女学生とカフェーにいった」という一文があれば、今と当時の読者ではまったく受けるイメージが異なるのだ。(厳密には風俗営業的なカフェーは明治にはないし、女学生の性的なイメージは(私見としては)昭和期には明治期ほどつよくない。)

 このようなイメージのずれが積み重なったとき、そしてその違いに気づいていないとき、私の読みは「まちがった」ものになるんだろうか。もしも仮にこのようなイメージのずれが積み重なりつつも作品全体の解釈として整合性がとれている、他の要素とまったく齟齬をきたさない読みがあった場合には、どうなるのだろうか。実際には人物や場所の設定には意味がある、あるいは後から意味が生じてくる、ので、完璧に整合性がとれていることも、齟齬が起きないということも、めったなことでは起きないと思うが、もし仮にそのようなことがあるとするならば、それは「現代版」の解釈として採用することができるんじゃないだろうか。その時代を、その時代の文化を、その時代の文脈を知らなかった場合の読みというものは、成立しないのだろうか。感想としては成立するが、論評としては成立しないということになるのか。しかし整合性が取れているとしたら?そんなとき、どうやって考えたらよいのだろう。

 

長くなったので今日はこれにておしまい。多分つづく。