文系大学院生の生活

文系大学院生、近現代文学専攻。研究や大学院の生活について記録していきます。

140字の思考

ツイッターが好きだ。ニュースだとか、今話題になっている情報を手軽に入手できるところがいい。可愛いねこの動画や写真も大好きである。

わたしのツイッター歴は6年。作ったアカウントの数はおそらく50を超えているだろう(というか稼働させていないものを含めたら現在でも十数個のアカウントを持っている、実際いま稼働しているのは3つです)。というくらい、実を言うとわたしは重度のツイ廃なのですが、最近ツイッターのせいだなあと思うことがよくある。

 

長い文章が読めない。

長い文章が書けない。

集中力がない。

 

とにかく、短時間(一時間とか二時間くらい)に一つのことを考え続ける基礎体力が落ちている。長期にかけて考えることは得意というか癖なので、半年か、それ以上ひとつのテーマで考え込むことはよくある。だけれども、短時間集中することができなくなっている。一二時間あれば読めるものを、集中して読めない。一二時間あれば書けるだろうものを、書くことができない。読むのはまだいい。スマホをどこか見えないところに置いてしまえば、割と集中して読める。

だけれども、書くのが本当にむずかしい。直感的に、瞬間的に、核のような部分は見えている。しかし、それを丁寧に説明しようとするともうだめだ。

主張の核はすでに自分の中にあるのだが、なぜそのように主張するのか、そのような主張にいたる背景は何なのか、そのような主張によって何がもたらされるのか等々を、構成するだけの気力を失っているのである。だからてっとり早く、ツイッターで140字で呟いてしまう。言いたいことが言えてすっきりする。いいねがつくと、共感してくれる人がいるんだなと思って、ちょっと嬉しくなる。

 

だけど、そうやって直感的な考えだけを持つことに危機感を覚えている自分がいる。「これから書く内容は決まっていて、書くという行為は、それを何らかの媒体に移すだけのことだ」といった考え方にわたしは賛成していない。もやっとした何かはあるけれど、書くまでは、それが「何」であるのか自分にも見えていない。このような感覚の方が、わたしにとっては実態に近い。だから、自分が直感的に感じた何か、その核だけを抽出し、呟いて満足している自分に危機感がある。本当に、わたしが考えていることはそれだけなんだろうか。ちゃんとわたしは考えているんだろうか。

 

140字に、カジュアルに、画面に、わたしの言葉がおさまっている。

本当は、もっとよく考えなくてはと思う。自分の考えがどこから来たのか、そしてどこに行くのか。自分が、自分の考えが、この社会においてどのように位置づけられるのか、自分の言動がどのような社会階層や差別構造に与するのか。そういったことを考える力が必要だと思っている。わたしがそうなった/ならなかったとして、直接的に誰に迷惑をかけたり、誰かを幸福にしたりする訳ではないのだろうが、自分が自分に対して、そういうことをちゃんと考えてほしいと思っているのである。

むずかしいことを、手抜きしないで考えてほしい。