文系大学院生の生活

文系大学院生、近現代文学専攻。研究や大学院の生活について記録していきます。

「文学を勉強して何になるの?」という問いについて

最近、大学院生への待遇がツイッターで話題になった。

授業料免除がなくなるという話だ。

これに対する「良識ある人々」の反応の多くは「大学院生は未来の技術革新を担う大切な存在なのになんてことだ!」というもので、文系の大学院生がまるで想定されていなくて笑った。まあ国が大学院生は働いてないだけのなんか勉強してる人だと認定しているくらいなので、希少種というか奇行種の、文系の大学院生が視野に入らないのも無理はないと思う。あれだけ「令和」で万葉集がどうだとか日本の古典がなんだとか騒いでいたのに。

 

文学部にいたときから、たとえば働いていた塾で「文学を勉強して何になるの?」「社会に出るときに何か役に立つの?」と生徒にも講師にも聞かれることはままあった。

わたしは小学生のころから、落語が好きで、そこから古典の世界にはまった。だからわたしが文学部への進学を決めたのは、単純に「文学の勉強がしたいから」であって、役に立つ何かという発想がほとんどなかった。そういった選択が許されたことを、今のところわたしは、幸運だったと思う。

文学を勉強して何になるの?という問いは、おそらく二つの問いを含んでいる。ひとつはこのわたしにとって何になるのか、ということと、もうひとつは社会にとって何になるのかということだ。

 

まず前者について。

文学を勉強して何になったんだろう。簡単に、分かりやすくいえば、読解力が身についた、だろうか。平たすぎて文学部出身の友達に「うすっぺらいことを言うな」と怒られるかもしれない。ただ文学部で求められる読解力は、いわゆる世間の「読解力」とは少しちがう。たとえば『こゝろ』を何十回も読んで、先行研究を何十本も読んで、本文一行ずつに注釈をふし、一語一語の連関に細心の注意を払って読んだことがある人はどのくらいいるだろうか。よっぽど『こゝろ』が好きな人か、そういう学科の人、あるいは研究者くらいだろう。文学部(国文科)でいう読むとは、一行一行をそうやってばかみたいな手間と暇をかけて読むことであって、目を通すという意味ではない。

そしてこの作業を地道に続けていると、書かれているものの背後にどんな思想や歴史、文化が凝縮されているのかを読み取ることができるようになってくる(もちろんそれ単体を読むだけでなく、芋づる式に多くの書かれたものを読むことになる)。それを深読みし過ぎ、考え過ぎだと嘲笑されるのにも、もう大分馴れた。だけどその一方で、そういう人達の中にもなんとなく生きづらいという感覚はあるらしく「こういう空気がいや」みたいなことを言う。それを作ってるのが、言葉ですよ、その背後にある思想ですよ、その思想によって生み出される様々な利益ですよ。と、面と向かって言うのに疲れたので、わたしは心の中でささやいている。

ただ、このような読解力を身に付けることがわたしにとって何になるんだろうか。なんだか様々な形の不幸がよりよく見えるようになった気がする。あまりハッピーではない。だけど、自分の言葉がどんな思想や歴史性を負ったものなのか、常に考えることによって、歴史的に弱い立場に押し込められてきた人々を、自分を含めて想像し、どうふるまうべきかを考えられるようになったと思う。もちろん無自覚に誰かを傷つけている可能性は十分にある。だけどその自覚やそうなるまいと自分を律するようになったのは、一つの成熟と言えるのでないか。他にもいろいろ学んだことはあるけれど、ひとまず、直接的でもっとも大きいのはこれです。生きづらそうだね、と言われるのも仕方がない。

 

次に後者について。

これは以前ツイッターでつぶやいたことと重複するのだけど、物語は人間の生命維持には必要ない。なのに、なぜか、あたかも物語らないと死ぬかのように、連綿と社会には物語が生み出されつづけている。文字を持たないから、記録の媒体として歌が選ばれたとか、メタファーとして物語るしかなかったとか、そういう時代もあっただろう。でも、文字が生まれても、出版技術が普及しても、物語はなくなるどころか増える一方である。

たしかに『こゝろ』の解釈が世の中に一つ増えたところで、何の役に立つのだと言われると、文化の発展に寄与しているくらいしか(人に通じる言葉では)言えない。だけど、それは書かなくてもいいものを書き、読まなくてもいいものを読む、そういった人間の活動を解明する、実践的なアプローチの一つとして十分位置付けられる。

なぜ書くのか、なぜ読むのか。

これらを人間の広義の生命活動として捉えれば、それを解明する学問ですということでよいのでは?大学一年生のころからずっと考えてきたことだけど、今のところ、これがわたしの「文学研究して何になるの?」への答えである。